なぜ私たちは代田の町家にあこがれ続けるのか

新建築住宅特集2015年2月号の、坂本一成さんの代田の町家が改修されたことに対して寄稿しました。あこがれの住宅についておぼろげに考えていたことを、なんとか言語化したものです。

代田の町家は、身体論的な哲学を建築へとなめらかに引き寄せたという点で特筆すべき作品である。

この住宅で坂本一成はそれまでの「ボックスインボックス」という形式から、機能を想定しない室同士を隣接させるという構成へと転換していった。発表と同時に掲載された多木浩二の論文にもあるように、室同士が「等価」であり、それらがただ「隣接しあう」という設定によって、ある室がたまたまリビングとして利用されているという程度にまで、室と機能との関係が脱臼されている。そうした等価な室の集合という概念的なモデルを打ち立て、なによりもそれを住宅にあてはめようとした前衛性にはやはり驚くべきものがある。しかも、現実的に住宅というビルディングタイプにはそれなりの機能性が必要とされているから、等価な室の集合という「脱機能的」(※1)な質を保ちながら住宅として成立させることは相当むずかしかったはずだ。ではどのようにして坂本は、脱機能性と機能性を両立させることができたのだろう。

鍵になっているのが、あちこちに設けられた大小の開口部だろう。それらが組み合わさることで、等価な室の集合という抽象的な構成を住宅ならしめている。例えば「外室2(アプローチ)→間室1(玄関と廊下と階段の集合体)→主室(リビングダイニング)→台所」という組み合わせは、生活の慣習的で機能的な動きをなぞっている。しかしこうした組み合わせだけでは、概念的なモデルを便宜的に住宅にあてはめてみたことにしかならないだろう。これを相対化するような組み合わせも存在している。「前面道路→外室2→外室1→主室→南側遊歩道」という視線のヌケをつくる開口部の組み合わせや、主室1と間室2を視覚的につなぐ開口部単体がそうで、これらは明らかに身体的な動きではなく、視線を起点としていることを特徴としている。

ただ、開口部の組み合わせだけでは住宅における慣習的で機能的なつながりの優位性を宙づりにすることには限界があったのか、この住宅ではもうひとつの大きな手だて、視線と意識を起点としている手だてが召還されている。そう、まるで小人のためにしつらえたのではないかと感じてしまうような、特異なスケールと存在感をもつ要素の数々だ。例えば主室のソファの上に浮かぶ窓台。窓の開閉のメンテナンスデッキであったとしてもかなり背が低い。東側に並ぶ窓や扉も2階にしては低く小さい。あるいは納戸1の明かり取りのためのごく小さな開口部も、そのひとつとしてあげられるだろう。

それらは、行ってみたいと思わせるような雰囲気を備えているからか、スケールに違和感があるからか、つい注意を向けてしまう対象になっている。そして、注意=意識はそこにいる仮想的な〈私〉を生み出す。面白いことに、この〈もうひとりの私〉のスケールは、移動先にあわせて自在に移り変わっていく。また、〈もうひとりの私〉だけでなく、例えば主室のベンチなど、〈ここにいる私〉のための空間もスケールが若干逸脱している。その結果、あらゆるスケールは相対性をおび、生身の身体を宙づりにしていく。もう少し抽象的に言い換えると、そうしたスケールの操作によって初めてある重要な心理的なセットが導かれるのだ。その心理的なセットにおいては、住宅を住宅ならしめているはずの機能的な導線や階層性が、とりあえずのもの、仮設的なものとなる。このようにして、様々なタイプの部屋のあつまりは慣習的な住宅らしさを多分に残しながらも、「等価」な部屋のあつまりへと変化し、〈住宅〉という概念には押し込められない自由な空気をたたえることができるようになる。

他にも、どの室も明るく居心地がよいこと(故に、階段のトップライトが修理されたことは非常に喜ばしい)は、この住宅が等価な室の集合であることを下支えしている。また、さまざまな素材と光の関係性も見逃すことはできない。外壁の鈍いシルバーが思わぬ方向からの光を拾って方位の感覚を鈍らせる一方で、半ツヤの白で塗装された縁甲板が南から入る光をなめらかなグラデーションで分布させ太陽の位置を再確認させる。水磨きされた大理石は、表面に、アンビエントな光で満たされたグレースケールの内観を映し出す。例えばそんな風に、この住宅では外でも中でも素材のコントロールによって、光の意味が変化しつづけている。南面する室の優位性を薄めることになるこうした光の処理は、室同士がわずかな差異を保ちながら並列的に並ぶことを実にさりげなく可能にし、等価な室の集合であることと〈住宅〉であることの間にゆれているこの建築の繊細な立ち位置を強固なものとしているのだろう。

ところで、この住宅は三人家族のために設計されたにもかかわらず、竣工時のどの写真においても主室の椅子は一脚であり、本特集の撮影でもそうであることが選ばれていた。隙の無い操作で住宅の象徴性をかき消していくのみならず椅子を一脚しか置かないことは、「生活の刻印が押されていな」(※2)いという当時の一部の評価の要因にもなったのかもしれない。ただ、確かに生活感を感じさせないこの椅子の、なんともいえない充実ぶりはいったい何なのだろう。しかもそれは、一脚しかないことによって逆にもたらされているとも言えるのだ。つい先ほどまでそこに誰かが座っていた様子を想像してしまうのだが、その〈人〉に孤独を見いだすことは難しい。なぜか。様々な開口部からの光に満たされたこの場所にある椅子に座っているその〈人〉が、家のあちこちに潜在するさまざまな〈もうひとりの私〉と共に静かに世界と向き合っているからだ。そして多分、他の部屋では〈もうひとりの私〉のかわりに家族が穏やかな時間を過ごしてもいる。そんな、実は、住宅としては当たり前すぎる日常の風景が、鮮やかかつ重層的に浮かび上がってくることに私は新鮮な驚きを覚える。

代田の町家で目指されていたのは、一言で言ってしまえば、〈住宅〉という社会学的含意をもつ概念の否定であるが、否定の身振りという点で似ている同時代の作品群からやはり一線を画していると思えるのは、それが、否定の先にこそある世界を見ようとしているからだ。この住宅での経験は常に身体を重要な起点とする。そのことから身体論的な哲学の強い影響を感じないわけにはいかないが、そこには、他ジャンルの知を借りる際によく見られる浮つきは全くない。人が人として生きる場、人が人と生きる場を切実に求めようとしたとき、建築というジャンルを超えざるを得なかったことが強く伝わってくるのだ。そうしたものが時代を超えないわけがない。そんな私たちにとってのあこがれの建築がこれからも存続する。そのことを心から喜びたい。

※1:奥山信一、異常と日常—住宅の1970年代『住宅70年代狂い咲き』エクスナレッジ、2006年※2:渡辺武信による月評(新建築1976年12月号)。同じ月評論者の宮脇檀からも同様の指摘が書かれている。

初出
新建築2015年2月号

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